言葉の重さ

人とコミュニケーションを取るときに使う「言葉」

 

どんな言葉でも、同じ単語でも、発信している時も受け取っている時も、人とその時の心境で重さは変わる。

 

私は鬱を経験しているが、鬱のときはどんな言葉も軽く聞こえていたし発言していた。

好き・嫌い・楽しかった・腹が立った・心地いい・不快だ・・・・

言葉には意味があり、その意味は共通しているから会話ができるようになっている。

 

しかし、発言した人と受け取った人が同じように理解しているかは不明瞭だ。場の雰囲気や目を合わせた時に伝わっているなと感じることからその会話は相互理解になっているように感じる。

 

もしかしたら、リアクションを合わせているだけかもしれないのだ。それでも広辞苑にのっている意味でお互いの発言を理解できる。100%心を通わすことはできないけれど。

 

ということは、その人のコンディションで今の会話がどれだけの効果を発揮するかは相手次第ということだ。

 

大人数で話すときは、できるだけ多くの人と共通認識を得たいために講演のテクニックがあるのだが、人を引き付けた言葉がどう理解されているのかまでは分からない。

 

もしかしたら、そこまで分からなくてもいいのかもしれない。コピーとは感情を揺らすことと言われているが、的を得ている。揺り幅も響き方も受け取りてに委ねているのだろう。

 

鬱の場合、だいたいの言葉に重みがなくなる。意味は分かっているのだ、「命」や「愛してる」は何を表現しているのか。

 

鬱の自分には5グラムくらいしか感じていないけど、家族・愛している人がいる人にとっては5トンぐらいに感じているのだろう。

 

私は最近鬱が軽くなり、一般人Bくらいにまで成長したのだが、言葉の重さが変わっていることに気づいたのは「気を付けてね」だ。

 

「いってらっしゃい、気を付けてね。」「その作業、気を付けてね。」と、相手を気遣う時によく使われる言葉だが、その言葉を言う方も言われる方も口癖のように言っている人もいるのではないだろうか。

 

「気を付けてね」は、その人がトラブルを起こさないように配慮することで傷ついたり怪我をすることを予防したいという願いが込められている。

 

それは、その人が大切な人だからだ。大切な人だと思われているということは、言われた人の身体と命は言った人にとってかけがえのないものだから。失いたくないものだから。

 

つまり、言われた人の命はその人だけのものではなく、言った人のものでもある、ということなのではなかろうか。

 

「気を付けてね」は、家族や職場の人以外にも言う機会のある言葉だ。それを言われるたび、言われた人の命は言った人にとっても重さを感じる。だいたい5グラムくらい。

 

鬱のときは、誰から言われても5グラムだった。

しかし、鬱から立ち直りかけている今「気を付けてね。」と言われた時、自分の命の重さを感じた。5グラム以上感じたのだ。

 

いつもと同じ言葉、やりとりだったのに。

誰にでも同じ重さを感じて欲しくて言葉を使っているなんて傲慢なことは思わないが、言葉の持つ力を改めて感じた。

 

言葉一つで何かを変えられるなんて思っていないが、せめて大切な人には自分がどのくらいの気持ちでそれを言っているのかを感じてくれると嬉しいなと思った。